“ 「秘密」とか「不思議」という言葉で誘うタイトルが、世の中には大変多いことにお気づきでしょうか。「鳥の秘密」とか「飛行機の不思議」みたいな本がきっとあることでしょう。この場合、鳥がなにかを隠しているわけではないし、飛行機の技術についても、科学的に解明されているから「技術」となっているわけで、不思議でもなんでもありません。ただ、それらを読む人たちの多くが「無知」だから、秘密に見えるし、不思議に感じるというだけの話です。同様のものに、「謎」があります。
ミステリィでも、謎が提示されますが、これは作者が作り、読者に示すものです。通常の事件の場合は、謎は観察者が作るもので、犯人が提示したわけではありません。観察者には、未知のものがあり、情報が欠けているために、謎になる、というだけです。ここでも、観察者(警察など)は、最初は「無知」なのです。
「無知」というと、なんとなく蔑んだ表現のように聞こえるかもしれません。多くの方が、「知らない」という状況を恥ずかしく思うように社会的な圧力がかかっているからです。でも、知らないことの方が多数であり、個人が知っていることなんて、全体のほんの僅かな一部でしかありません。地球上の砂の僅か一粒知っている程度なのです。
人は、知らないから、不思議に惹かれ、秘密を探るのです。謎があるから、なんとか解明したい、と思うのです。ただ知りたい、というのではなく、自分が理解できる理屈を構築したい、とも考えるはずです。
未知を既知にする行為は、通常はなんらかの利を伴います。謎を解明することで仮説が証明され、今後の予測が可能になる場合もあります。このようにして、人類は今の科学技術を得たわけです。
ただ、知っても謎が完全には解けないものも数多くあります。それは、さらなる謎が生まれるからです。物理学の進歩などはまさに、この様相を呈していて、知るほど謎が深まるばかりです。一般の方よりも、物理学者の方が、多くの謎や不思議を抱えているし、その意味では、はるかに「無知」なのです。したがって、「無知」は、恥ずかしいものではないし、蔑むものでもありません。むしろその逆かもしれないのです。多くの方は、自分が無知だということに無知なのです(当然ながら、これも悪い意味ではありません)。”
— 店主の雑駁: 秘密、不思議、謎の正体